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第87話 澄江は逃げていない

last update publish date: 2026-10-21 16:22:59

 店の戸締まりを済ませると、黒い車が表通りで待っていた。

 後部座席へ並んで座っても、煌は行き先を言わなかった。窓の外を流れる明かりを見ている横顔は、もういつもの冷静なものに戻っている。

 それでも糀は、先ほど唇が触れそうになった時の、わずかに速い呼吸を思い出してしまう。

 婚約が終わるまではだめだと言った。後悔はしていない。それなのに隣にいるだけで落ち着かず、糀は窓の外へ顔を向けた。

 車は、古い日本家屋の前で止まった。

 高い塀と閉じた門の向こうに、大きな庭が見える。煌が門を開けると、夜の冷たい空気に、枯れ葉と湿った土の匂いが混じった。

「ここは?」

「祖父が暮らしていた家です」

 煌は迷わず廊下を進み、奥の書斎へ入った。壁一面の本棚と、大きな机が残されている。机の端には、眼鏡まで置かれたままだった。

 煌は眼鏡を一度見たが、触れなかった。

「祖父の遺品は、ここにも残っています」

 煌は棚から古い木箱を下ろした。

 蓋には、宗一郎の字で《澄乃》とだけ書かれていた。祖母に関するものだけを、この箱へ大切に残していたのだ。

 中には、新聞の切り抜きや手紙が年代
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     店の戸締まりを済ませると、黒い車が表通りで待っていた。  後部座席へ並んで座っても、煌は行き先を言わなかった。窓の外を流れる明かりを見ている横顔は、もういつもの冷静なものに戻っている。  それでも糀は、先ほど唇が触れそうになった時の、わずかに速い呼吸を思い出してしまう。  婚約が終わるまではだめだと言った。後悔はしていない。それなのに隣にいるだけで落ち着かず、糀は窓の外へ顔を向けた。  車は、古い日本家屋の前で止まった。  高い塀と閉じた門の向こうに、大きな庭が見える。煌が門を開けると、夜の冷たい空気に、枯れ葉と湿った土の匂いが混じった。 「ここは?」 「祖父が暮らしていた家です」  煌は迷わず廊下を進み、奥の書斎へ入った。壁一面の本棚と、大きな机が残されている。机の端には、眼鏡まで置かれたままだった。  煌は眼鏡を一度見たが、触れなかった。 「祖父の遺品は、ここにも残っています」  煌は棚から古い木箱を下ろした。  蓋には、宗一郎の字で《澄乃》とだけ書かれていた。祖母に関するものだけを、この箱へ大切に残していたのだ。  中には、新聞の切り抜きや手紙が年代順に束ねられている。糀も隣へ座り、一枚ずつ確かめた。  祖母が宗一郎へ送った短い礼状もあった。糀の知っている、少し右上がりの字だった。料理の材料や店の仕入れ先については細かく書いているのに、自分の気持ちには一言も触れていない。  写真の中では、あんなに幸せそうに笑っていたのに。  やがて、九条グランドホテルの名が大きく印刷された記事が出てきた。 《幻の名店『澄乃』の味を、九条グランドホテルが正式継承》  糀は息をのんだ。  紙は黄ばんでいる。それでも、美咲の発表とほとんど同じ言葉だった。  記事には、九条が保管する資料をもとに、ホテルの料理人が澄乃の味を再現すると書かれていた。祖母の写真も、言葉もない。どこにも、祖母が認めたとは書かれていなかった。 「昔も、九条は祖母の料理を自分たちのものにしようとしたんですか」 「祖父は、何も話しませんでした」  煌が次の切り抜きを広げた。 《澄乃側、公開試食会を辞退》  記事には、澄江が姿を見せなかったため、九条側の料理だけが披露されたと書かれていた。  欠席した理由は書かれていない。まるで、祖母が怖くなって逃げたと決まっ

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